奈良の古寺を訪ねて|桜井・聖林寺の十一面観音像

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世にも美しい観音像

「東洋のヴィーナス」とも称される、国宝・十一面観音菩薩立像。その姿をひと目見たくて、奈良県桜井市にある聖林寺を訪ねました。桜井駅からのどかな町並みを抜けた先、小高い山の中腹に聖林寺はあります。奈良時代の和銅5年(712)に創建されたと伝わる古刹です。

本堂から続く細い登廊を上ると、十一面観音を祀る観音堂が見えてきます。慎ましやかな外観ながら、近づいてみると、どこか洗練された佇まい。期待を膨らませながら扉を開けると、そこには想像をはるかに超える空間が広がっていました。


古刹を訪ねてきたはずなのに、まるで異空間へ迷い込んだようです。ほの暗い前室の奥から、明るい光が差し込んでいます。光のほうへ近づくと、そこに十一面観音が姿を現しました。重厚な存在感を放ちながら、煌々と輝いています。思わず深いため息がこぼれました。けれど、言葉は出てきません。


像の高さは約2メートル。台座を含めると約3メートルにもなります。少し見上げると、ふくよかなお顔。微笑んでいるとも、そうでないともいえない、波立つことのない穏やかな表情。均整のとれた美しい体躯に、しなやかに伸びる腕、繊細な指先。腕から足元へと流れる天衣の軽やかさにも目を奪われます。


この十一面観音は、奈良時代の木心乾漆造(もくしんかんしつぞう)という技法でつくられています。
木で大まかな形をつくり、その上に麻布を貼り重ね、漆に木粉などを混ぜた木屎漆(こくそうるし)を盛り付けて細部を形づくる技法です。木屎漆は、いわば天然素材でできたパテのようなもの。


しなやかな体の線や、衣の繊細な表情は、こうした手間のかかる工程から生まれたのでしょうか。ずっと見ていたい。神仏を前にして、この空間を独占したいという煩悩まで湧き出てきます。その場を離れることができませんでした。

三位一体の芸術

聖林寺の観音堂は、2022年に改修・増築されました。
建築や照明の分野でも高く評価され、2024年には国際的なデザイン賞「iFデザインアワード」を受賞。2023年には「照明デザイン賞」の優秀賞にも選ばれています。


実際に訪れてみると、その独創的な空間づくりに驚かされます。新たに増築された前室には、地元の吉野杉を使った、ゆるやかな曲線を描くベンチがゆったりと広がっています。その足元に灯るのは、三日月を思わせるやわらかな光。頭上はほの暗く、どこか宇宙を思わせる静けさがあります。

そして、一段高くなったその奥には、もともとのお堂を改修した、円筒状の明るい空間が広がっています。ほの暗い前室から、光の中に立つ十一面観音像へ。この明暗の対比が、仏像だけに心を向けられる空間をつくり出しています。


その姿を遮ることなく守っているのは、ガラスの厨子。モダンの極致ともいえる佇まいは、祈りの場としての気品に満ちています。周囲を歩きながら、360度、あらゆる角度から拝観できます。奈良時代の仏像が、時代を超えて今、同じ空間に存在していることへの驚き。


頭上には、天蓋を思わせる白いドーム状の天井。仏像の頭上を装飾する天蓋を、空間として表現しているようにも思えます。また、光背がないため、背面の量感や起伏まで、はっきりと見て取れる。かつて仏像の背後を飾っていた光背は、長い年月のあいだに大きく破損し、残された一部が奈良国立博物館に寄託されています。


ガラスの厨子には免震装置が備えられ、温度や湿度にも配慮されています。仏像を美しく見せるだけでなく、後世へ守り伝えるための設備でもあるのですね。現代的な建築と照明は、奈良時代から伝わる像の品格を少しも損なうことなく、その存在感をいっそう際立たせています。

三輪山から移された歴史

実は、この十一面観音は、もともと聖林寺に祀られていたわけではありません。かつては、同じ桜井市にある大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺に安置されていました。大神神社は、三輪山そのものを御神体として拝む、古来の信仰を今に伝える神社です。古くから日本では、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の信仰が広く行われていました。大神神社にも、かつては大御輪寺(だいごりんじ)という神宮寺があり、十一面観音は本尊として祀られていたのです。


ところが、明治時代になると状況が一変します。明治元年(1868)、新政府は神道と仏教を分ける神仏分離の方針を打ち出しました。これをきっかけに、仏像や仏堂などを破壊する廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きが、全国各地に広がりました。


失われたのは、仏像だけではありません。仏画や経典など、寺院に伝わる数多くの文化財が、その対象となりました。大御輪寺も、こうした時代の変化を免れることはできなかったのです。


この像が聖林寺へ移されたのは、慶応4年(1868)5月16日のこと。当時の聖林寺住職、大心(だいしん)上人は、東大寺戒壇院の長老を務め、三輪山の信仰にも深い関わりを持つ僧侶でした。移座については、大御輪寺から聖林寺へ仏像を預けたことを示す「預証文」が残されています。


現在、法隆寺に伝わる国宝・地蔵菩薩立像も、かつては十一面観音とともに大御輪寺に祀られていました。聖林寺へ移されたのちに、法隆寺へと渡った仏像です。

こうして十一面観音像は、長い年月のあいだに装飾の一部を失いながらも、その美しい姿を今に伝えてきました。歴史の重みを感じずにはいられません。

フェノロサと岡倉天心

明治時代、日本が急速に西洋文化を取り入れるなかで、古くから伝わる日本の美術品は、必ずしも高く評価されていたわけではありませんでした。そんな時代に、日本美術の価値を見いだし、その保護に力を尽くしたのが、アメリカ人のアーネスト・フェノロサと岡倉天心です。


フェノロサが来日したのは、明治11年(1878)。東京大学で哲学などを教えるためでした。岡倉天心はその教え子で、のちに通訳や助手として、古社寺の美術品調査にも同行し、二人は各地の寺社を訪ねてまわり、日本美術の保護に取り組みます。聖林寺の十一面観音も、その調査のなかで高く評価され、天心が残した記録にも、保存すべき優れた仏像とする記述が残されています。また、それまで秘仏とされていた十一面観音が、この調査を機に開帳されたとも、聖林寺には伝わっています。


本堂脇には、フェノロサらが寄進したとされる厨子が今も残されています。この厨子には、火災などの際に仏像を運び出せるような工夫が施されているそうですが、実際に見てみると、2メートルを超える仏像がどう納まるのかと不思議に思いました。そのからくりは、目に見えている部分だけではわかりません。

ガラスの厨子も、本堂に静かに置かれた厨子も、形こそ違いますが、仏像を守りたいという思いと知恵が込められているのだと感じました。


日本美術に魅せられたフェノロサは、岡倉天心をはじめとする日本の人々とともに、その価値を見直し、守るために力を尽くしました。そして、こうした人々の活動は、やがて日本の文化財保護制度の整備へとつながっていきます。


聖林寺の十一面観音像は、明治32年(1899)に古社寺保存法に基づく国宝に指定され、昭和26年(1951)には、現在の文化財保護法に基づく国宝に指定されました。新制度で最初に指定された国宝の仏像24件のうちの一件です。


フェノロサは、日本の絵画を学び、狩野派の絵師に師事して「狩野永探(かのうえいたん)」という雅号を授かるほど、日本美術に深く傾倒していました。その関心は美術にとどまらず、明治18年(1885)には、滋賀県大津市にある三井寺・法明院の桜井敬徳和尚から菩薩戒を受け、「諦信(たいしん)」という法名を授かっています。


明治41年(1908)、フェノロサは滞在先のロンドンで急逝しました。55歳でした。そのわずか5年後の大正2年(1913)、天心もまた、病のため静養先の新潟・赤倉で50歳の生涯を閉じます。日本美術の価値を見いだし、その保護に尽くしたフェノロサと天心。師弟として出会い、ともに日本美術の未来を切り開いた二人でした。


フェノロサの遺骨は、本人の遺言により、琵琶湖を望む滋賀県大津市の三井寺・法明院に葬られています。

さいごに

観音堂を出て、本堂へ戻りました。
聖林寺の本尊は、子安延命地蔵菩薩。江戸時代中期につくられた大きな石仏で、安産や子授けのお地蔵さまとして親しまれています。

私が訪れたのは、2024年9月。まだ夏の暑さが残る、よく晴れた日でした。


本堂の一角に腰を下ろし、風に吹かれながら、しばらく奈良盆地を眺めていました。遠くには三輪山の姿も見えます。


美しい十一面観音像に会いたくて訪ねた聖林寺。

そこで出会ったのは、仏像だけではありません。現代の建築と照明、そして、長い年月をかけて守り伝えられてきた歴史。


芸術の箱を開いたような、感動的で忘れられない一日になりました。

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